『翼の贈りもの』を手に入れたぞ。
というわけでミニブログのほうでとっていた読書メモを纏めてみた。アレ読みにくくなるしな。スポイルを避けるつもりでストーリーの展開には極力触れず、むしろ連想と妄想に注力してみたので割と訳のわからないものになっているが、とにかく楽しかった。本を読むとき自分がこういう枝葉末節ばかり気にしているのが分かって愉快。
*以下のメモ書きに書いてある解釈はすべて自分の思い込みであり、【】でくくられた言葉だけが実在しますから。あと普通のカギ括弧でくくられた作品名はすべてラファティ作品のタイトルですから。
「だれかがくれた翼の贈りもの」:
ラファティの人類進化SFといえば「日の当るジニー」。生物集団が丸ごと進化したり先祖帰りしたりする超絶進化理論が語られる。地理歴史、理科はともかく、人類スケール以上の概念は素材として割り切っているのだろうか(と言ってみたけど、新人類ネタは割とある。シンプルに超天才とか、手が取れるのとか、眼球がカラフルなドロドロになるのとか、千差万別だけど)。
さて新人類に生える翼が、精神的なギフト、早すぎた才能だってのは言うのも野暮。時代にそぐわない若者は「太古の殻にくるまれて」にもいて、これは逆に皆が忘れた過去を覚えている若き恋人たち。「翼」では来るべき光、「太古」ではかつてあった光に触れるために、どちらも飛翔する。(同じく飛翔をあつかった「空(スカイ)」ではどうだったっけ? 要再読)
一方で、将来の完成のための犠牲であり、いずれ消え去る若者たちと書いてみると、今度は「山上の蛙」の宇宙人。若者のやかましく醜悪な面(蛙)と儚く優美な面(翼)。どちらでも若者と大人が断絶しているとかそれっぽいけど、たぶん、あまり関係なさそうな。オガンダたちにも彼らにとっての光があるのだろうか。
「最後の天文学者」:
天文学が疑似科学と化す、という状況設定は、これまた「太古の殻にくるまれて」と共通。どちらにせよ、世界のありさまそのものから無用の烙印を押された信念、信仰。その担い手の話。このラストの残酷で、グロテスクで、それでいて切ない美しさは堪らないな。【あなたには星の花が見えるようになるの。】
で、信念に殉ずる寓話と考えたらば、どちらでも「天文学」が指し示しているのはきっと宗教(精神的な真理探求)のことだ。とくに「太古」は洞窟の寓話を踏まえた精神的な光と暗がりについての構図っぽいので、割とそれっぽくないだろうか。天文学と言えば天動説を否定した学問という連想が真っ先に働いてしまうけれど、天文学者にして宇宙飛行士の主人公は失われた宇宙の広大さを惜しみ、代わりに彼らを取り巻くようになった虚無に慄くので、割とこのなぞらえは成立しそうだ。
しかしラファティはチャールズ・フォートを便利に使いすぎではないか。「翼」でもちょっとあったし。
「なつかしきゴールデンゲイト」:
ラファティ世界では悪は実在する。それは紛れて暮らす古代種族であったり、秘密を隠した宇宙人であったり、未来世界の支配者層であったりするが、とにかく嘘を真と称して生を欺くもの、人々の精神をプログラムして生を奪う存在。一例として、飲み仲間サイモンの言う【悪の存在しない世界】とは、「蛇の名」の惑星だろう。
ラファティ世界において生は物語であり、一つの仮想であることが多い。つまり酒場の劇はこの世の縮図。しかし悪の死によってその世界は結末を迎え、来週からは別の壁紙で別の物語が始まる。繰り返す終末とそれを超えての世界の刷新は、『パストマスター』にもある通り、ラファティ世界のもう一つの法則。ここでは90年代風から20年代風への刷新、つまり時代の変転とも重なる。
「雨降る日のハリカルナッソス」:
歴史、地理、言語をくすぐりネタを並べて、ありふれたSFアイデアとひねった接続をするのがラファティの十八番。しかし博物館のメンバー選定が謎だ。まあ冒頭からして屁理屈と深読みでこじつけているわけだから、特に誰でもいいのかもしれない。(ラマ・ハマ‐ガマってひとだけ知らないが誰だろう)。聖者となるには死ななくてはいけないというテーゼがさらっと紛れ込んでいるが、意味深だ。
冒頭三編は割と情感をみせた短篇だったが、ここにきて人を喰ったユーモアが飛び跳ねる小話。見え見えのメインアイデアまでわざとらしく、勿体ぶって進む展開は(男二人が酒場をぶらぶらしているのもあって)僕の好きな「うちの町内」を思い出す。やはり楽しい。
「片目のマネシツグミ」:
ラファティには賢者、天才博士たちがよく登場する。ときに人をペテンにかけ、魔術的な世界に片足を置く、不純粋な科学者。「数学さえも神話学のように響く」賢者。おそらく彼らは、ただの人である我々に栄光を届ける超越的な戦いの闘士でもありうるのだろう。人を欺く悪と境界を接しているきがしないでもないが、何らかの弁別方法があるのだろうか。【あの誰にも真似ができない侮蔑と傲慢さに満ちた歌声! そして火と燃える強い信心】というからには信心の有無がすべてなのかもしれない。そしてペテン師であることは、それが信心のもとにあるかぎりむしろ望ましい物となりうるのか。甘い歌声よりもよほど。【もっと大きなだれかが、時折、しばしば、この手の物語を私に話し聞かせてくれる。】には、やはり神の存在を感じる。
「ケイシィ・マシン」:
一つの寓話ではあるのだが、それをSFに落としこむための豪腕疑似科学理論が炸裂。生きながら審判を受けた小集団を呼び水として現象が先にあらわれ、後付の動作原理が選び出され、最後にもっともらしい機械が発明される。ケイシィ本人の意思とはかかわりなく。
【すべての真実の「瞬間」は永続性を持っている。しかし私たちがいつもその内側にいるわけではない。】 決め台詞きました。真ん中に置いてあることもあり、短篇集のテーマとしておそらくこれを狙ってるのかな。「翼」の若者たちは未来にある真実を目指しているのだろうし、「天文学者」は真実への道しるべを失ったのだろう。「片目」のトビアスの種族的記憶も同様。
【そもそも重力とは、重力以外のさまざまな力が多く寄り集まって生じていたものだったのだ。】「スナッフルズ」のフィーランの推論を思い出す。しかしここでもやはり地球スケールがサイズの上限のようだ。というか、地球で十全であるということか。地球上に現れる力はすべて地磁気を始めとした地球物理学的現象の総体によっているそうで、ラファティはこれを【情緒的な成分】と言う。フィーランよりは、「豊穣世界」の子供の第三の親は惑星そのもの、というテーゼだろうか。「最後の天文学者」では、火星は非合理な世界だという。われわれの立つ大地、地球が、肉体とも精神とも不可分であるということ。地学(地球惑星科学)、というか岩、大地がお好きなのか、何かと岩や地形は比喩やモチーフとして登場する。
忘却される“十一日間の驚異”(イレブンデイズ・ワンダー)……「その町の名は?」みたいだなーと思いつつ、アレも本来は(着想の根は)これと同じ物語だったのだろうか。あれのまるでシカゴが理想郷のように語られているのもその影響だったりして。語り手は忘却しているが、永遠の瞬間を覚えている人びとはいる。かつてあり、いずれきたる真実の瞬間を探しながら生きる物語。
「マルタ」:
苦虫ジョンきたー。見事な口上から始まる酒場の物語りが再び。しかもこれは異国趣味がふんだんに盛り込まれた一篇でもある。舞台はアラビア語圏の小さな港町、人名や名詞から察するにおそらく西アジアか。なかなか珍しいシチュエーション。マルタの身の上話や、ジョンの冒険譚の一部をダイジェストで語るくだり、愉快な物語りの妙味が凝縮されている。
「優雅な日々と宮殿」:
【第一級の笑いには、何ものにも打ち勝つ奇跡の力が備わっているのさ。】 しょっぱなから、かましてきました。何ものにもってのは半端な話じゃなくて、人と神の関係においてすら、この理は働くという。続けてくらくらするようなアクロバットが連発される。例えば、秘伝のシチューのように、神が作ったのではない小世界の秘密を知ることで、神を出し抜くことを主張する。私たちが神の夢に過ぎないとしても【神に悪夢の手触りをとくと味わってもらおうではないか。】と吹く。不遜だなあ。同じマッドサイエンティストの傲慢でも、トビアス・ラムの信心深い嘲りとは正反対である。ラファティ的には不遜は罪なんだろうか。
天才グリッグルス・スウィングが己の正体をはぐらかすあいだ、延々奇妙奇天烈な哲学が議論され、同じくらい奇天烈なディナーとそのテーブルマナーが語られる。味はさっぱり思い浮かばないけど、妙に儀式的だったり魔法的だったりする食事シーンが多いのもラファティの売りだと思っている。狩りで仕留めた獲物をキャンプで食べたりとか。
さらにオチより驚いたのが、【十九世界】【ベータ・ケンタウリの惑星アパテオン】という記述……居住世界シリーズだったらしい。ここにきて、既訳短篇中ではほのめかしだけだった、油断ならない交易惑星の一部(のさらに一地域)が明らかに。苦虫ジョンシリーズ、居住世界シリーズ、と来たので不純粋科学研究所シリーズもほしいところだけど。残り三篇には無さそう。
「ジョン・ソルト」:
話自体はシンプルだが、イカサマ説教部分がそれなりに含蓄深い。山を動かすのが奇跡ではなく、山を保ち続けることこそ奇跡だ。この世に信仰心があるからこそ大地は安定し、人は生きている。存在そのものが神の奇跡だという。ここでは(イカサマ師なので)続けて、私の信仰心のおかげだから寄進せよ、と続くわけだが、本来はすべての人びとの信仰心、義心をあわせて世界が保たれていると説かれるべきなのだろう。
「深色ガラスの物語」:
古代人、突発的氷河期、真実から閉ざされた人々、暗殺される変革……ラファティとっておきの舞台装置が重なり、そのものが物語る。短篇集の中でも特に変わった話だ。さしあたりのキャラクターさえいない。
世界の生ける霊がネアンデルタール人の町の窓ガラスに、朝霜によるステンドグラスを描く。この惑星の情緒的な部分がまた顕れた。世界の霊は気象でもあり、生物、無生物、人間の区別なく同化し、力を及ぼすという。「天文学者」で体重計に人格を与え、「豊穣世界」で早熟な子供を産んだ霊の働きとはこういうことなのだろう。そして霊が人にも宿る以上、ここで現れる霜のステンドグラスは、人の作る芸術作品(ラファティは作家だから小説か?)そのものの寓意、というか上位互換である。結末からしても、そういうことだろう。
「ケイシィ・マシン」とはちょっと手順がズレているが、示していることはきっと同じ。栄光の時代は存在するが、今、われわれはそれ忘れている、という世界からの呼びかけ。シリーズもの二編と、信仰を扱った小品をはさみ、ラスト直前にこれ。だとすると、いささか周到に編集されすぎなような。
「ユニークで斬新な発明の数々」:
今この瞬間からを宇宙誕生の七分間として、まったく新しい何かを創りだそうと挑む。これも一種の草の日々を勝ち取ろうとする闘士だろうか。電車にボックス席にのりあわせた人々であるが、ラファティなマッドサイエンティストの面々を思い出す。
この宇宙を律する(らしい)ホーキンスの自己回帰原理とやらが語られるが、それがまた「優雅な日々」のはぐらかしに輪をかけて奇妙な問答の数々。普段はあまり似てるとは思わないけど、SF宇宙論めいててラッカーのあれやこれやっぽい。これまで推測してきた真実の瞬間のメッセージがこの短篇にも適用されるなら、宇宙の始まり=真実はいつでもそこあるという下支えになるのか。
煙に巻くような議論の一方で、世界の有様は彼らの思いつきのままに変貌する。不気味で陰惨な出来事が淡々と進行する、薄暗い夢のような手触りが気持ちいい。ラファティは怪談もいい。効果もキマって綺麗にまとまる、締めくくりにふさわしい。
というわけで十一篇全部だらだらっとやってみた。井上さんがどのような意図で編集したかは、通読すると並べ方とかからなんとなく想像できる感じ。まぁ解説にきっと書いてあるはずなんだけども。
未読の人がこのメモ書きを読むことはあまりないと思うけど(といいつつ既に一度ミニブログ上で公開しているわけだが)、『九百人のお祖母さん』収録作のようなジャンルよりの作品が、この短篇集ではむしろ箸休め的に配置されている。早川書房の短篇集を既読の人は、ああいうのだという先入観を持たないほうがいいかも知れない。こういう苦かったり硬かったりする側面がラファティにもあるっていう紹介はありがたいと思いながら、そういう傲慢な心配もしてしまうのだ。しかしとにかく翻訳で読めるってだけでありがたい。もっとあれもこれも翻訳されないだろうか。自分でも読んでみてはいるけど、やはりラファティの言語センスは生半な語学力では突破できないので。