さておき、ラファティ企画を聞きながら興味を持った点について(主に柳下毅一郎氏の発言、刊行予定の長編『第四の館』と、ラファティのカソリック性についての推察を中心に)ちょいちょいノートをとっておいたので打ち込んでおく。間違い、誤解、そもそも公開に問題などあればお手数ですが米欄などに願いします。
また本企画は提供のSFファン交流会スタッフの方のはからいによりストリーミング中継されていたが、やはり直前に決定された中継だったためか、聴き逃した方、聞こえにくかった方が少なくない様子。そういった方々には申し訳ないが、これは記録としてはまったく不完全である。このような話題もあった、というものだと思っていただきたい。むしろ僕が完全な記録がほしい。
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○『第四の館』の翻訳
『第四の館』の翻訳は『宇宙舟歌』などよりも難しい。善と悪の戦いであり、様々な登場人物が演説などで主張しあう。主人公は善であり、その敵役が悪なのは当然として、他のキャラクターたちが善なのか悪なのか分からない。その論理が分からないと訳せない。
「銀河」(ルイス・ブニュエル監督)はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を舞台に、様々な異説を唱える巡礼が現れる。『第四の館』も同様、登場人物それぞれの信仰の段階や、そもそも認められる信仰なのか否かが問題。これが読解を、翻訳を難しくさせている。
○高橋源一郎の評論エッセイ(『文学王』?)において『シンドバッド十三回目の航海』が紹介された際、大森氏にとある出版社(聞き取れず)の海外文学シリーズの一本として出版しないかという提案があった。が、そののちシリーズごと没になってしまった。柳下氏の苦労談を聞くと、引き受けなくてよかったかも。
○『第四の館』でラファティの初期長編六作目までが翻訳されたことになる。(テキストの出版年表によると:@『トマス・モアの大冒険』出版は68年、邦訳は93年。A『地球礁』68→02。B『宇宙舟歌』68→05。C『第四の館』69→11予定。D『悪魔は死んだ』71→86。E『イースターワインに到着』71→86)
○『第四の館』タイトル
企画テキスト掲載の「アビラの聖テレサと神の館(『第四の館』解説より)」に基づいて、タイトルの第四の館とは何かとの解説。(ちなみに原稿は解説よりとなっているが、解説はまだ書き上がっていないとのこと)
アビラの聖テレサとは、神との合一を体験したと伝えられる聖女。彼女が自身の体験を解説したのが『霊魂の城』という書物。『霊魂の城』においては、人間の霊魂はクリスタルの城に例えられ、城の七つの部屋は上昇の段階をしめす。第一の部屋「信仰を持つ」から、第七「一切のおそれがなくなる」までの段階だが、ラファティがタイトルに使用した第四は、はじめて信徒に神が降りてくところである。またここでは理性が超越される。(神が降りてくるのは道の半ばに過ぎない)
○ラファティのホラ話ではない面
ホラ吹きと言われることが多いが、非常にインテリである。ただしその知識を独自の論理に基づいて語るので、相手に通じにくい。しかし、彼なりの論理は存在している。それこそ「よっぱらい」の不可解な言動ようなもの。
ホラ話や奇想SFがラファティの意図のすべてだとは言えないのではないか、違う面、違うレベルがあるのではと柳下氏は最近気にしている。
○昨年の京フェス合宿企画「ラファティの次に読む100冊を考えよう」で、柳下氏が推薦図書として上げた「黄金伝説」(ヤコブス・デ・ウォラギネ)などを読めば、見え方が変わる。聖人伝であるが、聖人は必ず最期は殉教する。手足を切り落とされながらありがたがる。これはなにか?
○(続き)カトリックの人間観、柳下氏の見解
実家がプロテスタントであり、そうではない日本人よりはクリスチャンに関する知識が自然とあるはずである。同時にクリスチャン的なものが気になる。しかしカソリックについては結局わかっているつもりだったことに気づいた。
日本のクリスチャンはリベラリスト、究極的に性善説に則っている善人が多い。しかしこれはプロテスタントだからであり、カソリックはまた異なる人間観を持っているのではないか。プロテスタントは神を信じることを選び、信仰を通じて神と契約を結ぶものだと理解している。しかしカソリックにとって、信仰は生まれながらのものであり、個人の信じる信じないの選択はありえない。そして誰かに奇跡として神のしるしが現れ、それに理由はない。ヨブ記や旧約聖書に書かれているように、善人だから救われる、信じているから救われるということはなく、それは神次第である。人間はちっぽけで、何をやっても無駄だけど、神の恩寵のみが救ってくれる、一種の人間不信。
ラファティの作品世界では人はすぐに死ぬ。殺される。救われるかどうかも定かではない。このあたりがカソリック的世界観のあらわれではないだろうか。そして、人間不信であるのに絶望しない。何故か? ラファティには神がいるから絶望しないとして、われわれ(日本の読者のことか?)はどうすればよいのか?
○ラファティのカソリックっぷりの一例、反共小説"Civil Blood"を書いている(反共主義)。またそれゆえにベトナム戦争支持派であった。(後で「一切衆生」は、つまりそういう話だったのではないかと考えた。味方同士で守るべき人間性を否定しあう逆説。あるいは逆で、「反共」も人間性の防衛にまつわる問題の具体例であったのかも)
○井上央、浅倉久志の訳者あとがき、そしてテキストに訳載されたM・スワンウィックがラファティ短編集に寄せた序文「絶望とダック・レディ」、いずれにも「ラファティ小説が示す希望」について言及がある。これは何処からくるのか?
○本国でのラファティ出版状況
初期はデーモン・ナイトなど鑑識眼の確かな編集の元で厳しくダメだしされながらチェックされていた。次にオリジナルアンソロジー全盛期には大体なんでも(珍妙なものでも)掲載されるようになった。最終的に、スモールプレスからしか出版されなくなると(スモールプレスはラファティを好きで出版したいので)、どんなものでも出版されるようになった。つまりどんどんクオリティコントロールが緩くなっていったのではないか。
ラファティはインテリであり天才であり、しかしながら生のまま、例えるなら原木である。そこから仏を取り出すには、デーモン・ナイトのような編集者がノミを当てて彫ってやらなくてはいけない。とはいえ、不備があったり、オチてないもののほうが、ラファティの思想がよく見える場合もあるかもしれない。
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尻切れトンボであるがノートはここまで。丸括弧内は打ち込み中に自分で付け足した部分など。『第四の館』は順調にいけば夏ごろ(8〜9月あたり)に出せるかもしれない、とは国書刊行会の樽本氏の談。SF大会あるいは京フェスでの刊行記念ラファティ企画が期待される。
また企画終了後、柳下氏にラファティ読解について質問をさせていただいた。宗教的なバックグラウンドがあるとはいえジョークはジョーク、SFアイデアはSFアイデアであり、階層の弁別が必要となる。この際、象徴レベルを読み取るための下準備として、「聖書」「金枝篇」あとはユングなどの知識があるとよいとのアドバイスをいただく。とするとラファティがちょくちょく言及する文学者の諸作も当然「読んでおくことがのぞましい」んだろうな。最後に、出演者、企画提供のみなさん楽しい時間をありがとうございました。
蛇足。スワンウィックの「絶望とダック・レディ」はパラグラフごとに同意し、笑い、落ち込みたくなるようなラファティファン必読の見事なものだが、個人的にもっとも堪えたのが以下の文。「レイフェル・アロイシャス・ラファティについて書くとき、つい彼のようにやってみたくなる。(中略)だが、失敗するのがおちだ。ラファティのゲームで彼に勝てるわけがなく、実力差のあまり間抜け面をさらすはめになる。」 ハイまったくそのとおり……。
レポートもうまくまとめていただき、参加できなかったラファティ・ファンの方々にも、内容が伝わると思います。
大森望さんが『シンドバッド十三回目の航海』の翻訳をオファーされた版元は、福音館書店です。
(*Twitterのpostによると福音館は勘違いで、正しくは福武書店だそうです)